団塊世代の昭和

昭和シリーズ第2弾。今回は団塊世代編です。ベースの記事を親に書いてもらって、それを私がHTML化しました。 団塊の人達が過ごした昭和ってこんな感じだったんですね。 団塊世代の親からこういう形で話を聞くのは、おそらく初めてなんじゃないかな。 団塊の昭和に関するリアルなエピソードがたくさん聞けて良かったです。 団塊世代ならではという貴重な思い出話の数々、大変参考になりました。ありがとうございます^^

団塊というと、今までは新聞やテレビで見聞きするだけで、「へぇ〜」という感じだったけど、 こういうまとまった話を見ると、また少し見方が変わりますね。団塊の人達から感じる、力強さのルーツを垣間見たような気がします。 こうやって、自分が生まれる前の話を聞くのは、新鮮で良いものですね。 皆さんも機会があれば、お父さんやお母さんの思い出話を聞いてみてはいかがでしょうか。新しい発見や感動が得られると思いますよ。

昭和20年代後半〜(1950〜)

定かではないが、私の生まれた故郷で幼稚園が出来始め、そこの入園一期生(?)だったと思います。 年令的にこれ以前の記憶はありません。そして、翌年には隣の小学校に入学しました。 小学校の校庭には大きな桜の木があり、毎年秋には運動会が行われました。

よく言われるように、当時の運動会は村の一大イベントで、学校行事と言うよりも、地域対抗合戦という感じでした。 自宅周辺の大人達が一区画に陣取り、綱引きやリレーに大声援を送るのが当り前の光景でした。 母親たちは昼の弁当に腕を奮って、巻寿司や玉子焼きを朝早くから作ってくれたものです。 その頃の運動会は、家庭においても一大行事だったのです。

学校給食の思い出はあまり芳しくないですね。 カレーが時々出たのですが、現代のカレーには程遠く、むしろカレー汁と言った様相で、 しゃぶしゃぶの黄色い汁に油がギラギラと浮いていて、固形物を噛むとギューギューという音がする。 あれは何だったのだろう。たぶん肉の筋あたりが入っていたのでしょう。 どうしても飲み込めず、こっそり口から出して、それのやり場に困ったのを未だに覚えています。

父親は当然徴兵され、出征したそうです。時々、足や肩の傷を見つめながら戦争の話をしてましたが、多くを語りませんでした。 今になって思うと、貴重な戦争体験をもっと聞いておくべきだったと悔やまれるのですが、 当時の両親は、そんな事よりも、生活再建や子育ての方が目前に迫った緊急課題だったのでしょう。 むしろ、つらい戦争のことは早く忘れたかったのかも知れません。

この頃は、丸いちゃぶ台に家族全員が座り、その一角に鍋釜を置き、殆ど自給自足の食事情でした。 育ち盛りの子供たちにとって、寒蘭(きゃべつ)の油炒めがとても美味しく、食べ過ぎてお腹をこわす事もありました。 たまに魚屋が自転車にトロ箱を積んで、鰯や秋刀魚を売りに来るのは大変なご馳走でした。

昭和30年代〜(1955〜)

小学校は徒歩で30分くらいだったと思います。 高学年になると、朝から農作業の手伝いをしていました。 手伝いで学校に行くのが遅くなった時は、自転車で通っていましたね。 それがうれしくて、時々自転車に乗る為に手伝いをしたこともありました。

当時の冬は、ものすごく雪が降り、朝起きると道も田んぼも境目なく、一面銀世界になったものです。 各家庭の大人たちは、子供らの通学路確保の為、 朝早くから藁沓(わらぐつ)で踏み固めた一筋の道を、隣家から隣家へと繋いで、学校までの道を付けてくれたものです。 しかし、帰宅時にはそれも消え、胸までの雪と格闘(今風に言えばラッセル)しながら帰ったこともありました。 除雪機械と温暖化の進んだ現在では、冬山以外の平地では想像も出来ない自然の厳しさでした。

昭和34年4月、皇太子ご成婚。皇太子とは現天皇(明仁)のことです。 この時代、まだテレビは村に一台しかなく、近所の住民がテレビのある家に大集合したものです。

同年9月、台風15号が中部地方を襲いました。今でも時々ニュースに出てくる伊勢湾台風のことです。 愛知を中心に、全国で5000人以上が犠牲になったそうです。先般の阪神大震災に迫る被害ですね。 我が家の周辺も大変な風雨でした。自宅では雨戸に畳を立て掛け、家族総出で家を守っていました。 窓からは、はるか遠くの田んぼが真っ白になっているのが見えました。大きな河川が氾濫し、周辺の家屋敷・水田を飲み込んだのでした。

中学校は、5つほどの小学校が一校に集まるマンモス校でした。確か、一学年11クラス550人くらいの生徒がいたと思います。 そして受験競争の幕開けだったのです。試験のたびに、上位から100人くらいの成績が、長い廊下の壁に巻紙のごとく張り出されるのです。 せめてこれに載るのが目標でした。通学はもちろん自転車で、砂利道を毎日通ったものです。 あの時代でも、時々道路をカマボコ型にローダーが削っていましたが、補修直後はよくその傾斜で自転車ごと転んだものです。

高校は更に学区が広がり、友達はあちこちの市町村から通学していました。遠隔地の生徒用に寄宿舎もありました。 総合高校でしたが、3クラスの進学組だったので、この頃になると成績は後から数える方が早かった。 本当は工業系の高校へ行き、作業服を着て工場で働く技術者を想定していたのですが、 「これからは大学を出ないと」みたいな機運を中学の進路指導の先生や親が察知して、普通科を薦めたのでした。 今は感謝しています。

昭和38年11月、初の日米テレビ中継。これも忘れられない出来事でした。 今はどこでも、発生と同時に全世界にニュースが伝わりますが、 当時、国外の映像が一般家庭のテレビで直接見えるのは大変なことでした。 どんな映像が映るのか、興味津々でTVの前で待ってました。 ところが飛び込んで来たのは、あのケネディ大統領暗殺のニュースでした。衝撃的な幕開けとなったのです。 因みに当時は、これを衛生中継ではなく、「宇宙中継」と呼んでいたようです。

昭和40年代〜(1965〜)

祖母の死。私が高校3年になった年に、明治生まれの祖母が亡くなりました。 特別の病気だった訳ではなく、いわゆる老衰だったのでしょう。 まさに木が枯れていくように、痩せ細り、静かに自宅の布団の中で逝ったのです。

今は87%が病院死だそうですが、当時は逆に8割以上が在宅死でした。 家族みんなで死を悲しみ、命や生死と直接向き合うのがごく普通の事だったのです。 『おくりびと』でも話題になりましたが、今は死を忌み嫌い、家族の目からも遠ざけてしまうような風潮があります。

動物も植物も、生を受けたらいつかは必ず死を迎える。これほど確実な事実はないのにです。 昨今報道される凶悪事件のたびに複雑な思いになります。 しかし一部で、終末医療・遺言・お墓・遺品整理などの話題が表舞台で語られるようになったので、 これからは少しずつでも変わっていく事でしょう。

大学での生活は、生まれて初めての一人暮し。と言っても、まだ食事付きの下宿屋があり、3人の新一年生でスタートしました。 余談ですが、この下宿の娘と結婚した友人がおり、彼らとは今でも会うと当時の話で盛り上がります。

専門課程になると同時に、学校近くの納屋の2階を改造した「貸し部屋」へ引越しました。 当時、学生の洗濯はタライでするのが普通でしたが、そこにはローラ絞りのハンドル付き洗濯機があり、 すごく便利だったことを覚えています。同居人に限らず、近所の友達までが洗濯に訪れたものでした。

大阪万博(EXPO'70)開催。よく昭和を語る時、話題になる出来事ですね。 東京オリンピックとともに、戦後日本の代表的イベントでした。 就職した年でしたが、社員旅行は全社挙げてこの万博がお薦めプランでした。 「月の石」のアメリカ館などはとても入れる状態ではなかったので、人気のないパビリオンを2〜3ヶ所廻って終わりました。 大阪本店勤務の独身寮生は、近距離の特権を活かし、アフター5を満喫したとか。

初任給は今でも忘れない\39,000でした。当時の公務員は\41,000くらいで、あまり官民の差はなかったと思われますが、 その後のオイルショック、金融破綻などを経て現在に至ると、年金も含め大きな差となって現れています。

昭和50年代〜(1975〜)

入社後10年、そろそろ仕事も覚え、社会人としての自覚も出来てきた頃でしょうか。 住まいも、借り上げ社宅ながら、2DKの文化住宅から3LDKの住宅供給公社のマンションに引越しました。 結局、この周辺が以後の生活基盤となり、数年後には近くの分譲マンションを求める事となりました。 経済的に余裕があった訳ではないですが、最上階の最安値の区画を購入しました。 理由は、途中階独特の圧迫感から開放されたかったからです。

昭和60年代〜(1985〜)

バブル期。この時代は年齢的に40代前半、いわゆる働き盛りでした。それこそ会社と仕事漬けの毎日でした。 責任もあるが働き甲斐もある。当然給料も毎年アップしていきました。家庭・夫・父親としては落第だったかも知れませんが、 当時はそれが当り前であり、仕事に励む事が家族の幸せへ通じると確信していました。 景気などは偉い先生が後日、『あれはバブルだった』と言うから分かるので、渦中の凡人にはさっぱり分からないのです。

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